グラフかごしま2020年5月号
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史実に忠実な復元を目指して※現県歴史・美術センター黎明館(鹿児島市城山町)じょうかん※やまじろきょきょそせき 鹿児島(鶴丸)城は、慶長6年(1601年)頃に、のちに初代藩主となる島津家第18代当主・家久が建設に着手した島津氏の居城で、背後の山城(城山)と麓の居館からなる城です。居館の正面中央の御楼門は鶴丸城のシンボル的な存在でしたが、明治6年(1873年)の火災で焼失しました。 その大きさは、高さ・幅ともに約20メートルもある日本最大の城門だったとされています。 火災で焼失する前の明治初期に撮影された古写真や、現存する礎石に残る柱の痕跡、埋蔵文化財の発掘調査の出土品などを参考とし、また、専門家の指導・助言を得ながら、可能な限り史実に忠実な復元が行われました。 瓦の模様や形状など江戸時代天保期の特徴を持つ御楼門からは、約150年前の往時の姿が感じられます。日本最大の城門であった「御楼門」: 6慶長17年天保14年明治5年明治6年明治10年明治34年昭和58年慶長6年(1601)島津家久が鹿児島(鶴丸)城の築城を始める(1602年説あり)御楼門の柱立御楼門の建て直し(1844年説あり)明治天皇行幸鹿児島城本丸、御楼門が焼失西南戦争、二之丸が焼失第七高等学校造士館設立鹿児島県歴史資料センター黎明館(現:鹿児島県歴史・美術センター黎明館)開館(1612)(1843)(1872)(1873)(1877)(1901)(1983)二之丸天保14年城下絵図(鹿児島県立図書館 蔵)復元した鬼瓦発掘された鬼瓦現在も残る礎石山城(城山)居館御楼門築地城の歴史御楼門復元までの歩み
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